小沢一郎という政治家に対する好悪は別にしよう。ただ、希有な実力を持つこの政治家を、法律の素人が、感情で「起訴」か「不起訴」を決める検察審査会の「起訴議決制度」は、見直すべきだろう。
弊誌は、司法制度改革の目玉の一つである検察審査会法の改正と、それによる「起訴議決制度」が、いかに危ういものであるかを、一貫して批判してきた。それは、一般の国民に司法の判断を委ねるという行為が、精緻に法律に則して裁く「精密司法」から、市民の感情におもねる「感情司法」への移行を意味するからだった。
それが見事にあてはまったのが、小沢氏である。実力の裏返しである「悪人面」と、小沢氏嫌いのドンが率いる『読売新聞』と『産経新聞』を中心とした猛烈な小沢バッシング。そこに「小沢を叩けば売れる」という週刊誌が“相乗り”、刑事被告人になったかのような報道が続いた。
実は、小沢氏をなんとしてでも起訴に持ち込みたかったのは、東京地検特捜部である。だが、石川知裕、池田光智両元秘書の供述が信用できないとして、検察は不起訴処分にした。その「不起訴」が許せないとして、東京第五検察審査会が「起訴相当」、東京第一検察審査会が「不起訴不当」の議決を下した。
法律のプロである検察官が、涙を呑んで不起訴としたものを、素人の11人の市民が覆す根拠は感情である。弊誌は、第五検察審査会が「起訴相当」を全員一致で議決、強制起訴の可能性が高まった時のNo.645(10年5月15日号)でこう書いた。
「これまでに強制起訴は明石歩道橋事故、JR西脱線事故の2件なされているが、もし陸山会事件で小沢氏が強制起訴されたとすれば、質が決定的に異なる。特捜部の政治事件に、『感情』が持ち込まれるという特異性である。政治事件は、通常の事件・事故のように構図が明確ではない。被害者が不明瞭なのに比べ、事件摘発による政治的受益者は明確である。その意味で、政治的に利用されやすい舞台なのだ。素人が手を出すべきではない」
だが、「起訴相当」の次に、第一検察審査会が、7月15日に出した結論は「不起訴不当」であり、これで小沢氏は追い詰められた。
当初、7月中と目されていた第五検察審査会の議決は、最速でも10月末頃となる見通しだが、両検察審査会の出した結論にそれほどの差がないということは、小沢氏が刑事被告人となることは避けられず、それは小沢氏の政治力の大幅な低下を意味し、同時に小沢氏の離党も視野に入ってくる。
多くの政治的な課題を抱え、日本経済が苦境に陥っている時、こうした混乱はできるだけ避け、政治を安定させることが政治家に求められている。ところが逆に、「感情司法」によって政局がつくられ、小沢一郎という政治家が、抹殺されようとしている。
それは日本にとって不幸である。マスコミ、法務省事務局、審査補助弁護士によって“空気”が醸成され、それによって、「起訴相当」のような厳しい処分が、穏健な声をかき消していく。また、そこには小沢氏を抹殺することによる「政治的受益者」がいるという構図を認めるべきではない。それは冒頭に言ったように、「好悪」とは別の話である。
付け加えれば、検察審査会の密室性は正しいのか。メンバーの氏名、年齢、職業などをすべて教えないことはもちろん、どんな論議を経て議決に至ったのかもオープンにされない。マスコミが審査員に接触、報道することすら禁じられているのだが、『朝日新聞』(7月22日付)は、鳩山由紀夫前首相の偽装献金事件の審査経験のある審査員の証言を、守秘義務にふれない範囲で掲載している。
興味深いのは、読み込まなければならない書類の量だ。地検特捜部から提出された証拠書類は約1000ページ、15センチもの高さとなり、そのうえに政治資金規正法の資料や六法全書を渡され、条文を勉強、それを2週間に一度のペースで、任期の3カ月間、続けるという。
どんなスーパーマンでも、それだけで自分なりの結論に到達できるわけはなく、結局、最後の拠り所は、報道と事務局や補助弁護士の意見を参考にしたうえでの「感情」である。そうなると「小沢はワル」という刷り込みが効果を発揮、「起訴相当」「不起訴不当」という結論になる。
検察審査会の役割は、もともと有罪の証拠はあるが、検察官が情状酌量した起訴猶予案件について、被害者が処罰を求めて申し立てるもの。政局に利用される恐れのある政治家の事件に、「起訴議決制度」を用いるべきではなく、「小沢審査」が伝えるのは、この制度が抱える歪みであり、法改正すべき時に来ていることは間違いない。

