日本のジャーナリズムのおかしさは、すべて同じ方向に向いていることにある。
スキャンダルが発覚すれば、「落ちた犬は叩け!」とばかりに襲いかかり、貪欲に食い散らかし、読者・視聴者が飽きると次のターゲットに向かう。それが商業ジャーナリズムの宿命ではあるが、十年一日のごとく同じスタイルの報道を続けているために、ジャーナリズムが世の中の仕組みを変え、政治を動かすようなパワーを持たない。
例えば小沢一郎報道である。もともと口が重く、世間受けを狙わず、プロ意識に徹した政治家で、マスコミの“受け”が良くなかったせいもあるが、昨年3月、大久保隆規秘書が政治資金規正法違反で逮捕されてからのバッシング報道は目に余った。
金丸信元自民党副総裁の寵愛を受けていた頃にまで遡って金権体質を批判され、10年以上も前の公共工事の「口利き」が、今、行なわれているかのように語られた。「小沢チルドレン」を当選させた力量は、スパルタ式の新人教育を伴う強権と混同され、政策も資金も全てを握るのは小沢氏で、鳩山由紀夫首相は傀儡に過ぎないと喧伝された。
その当否を問おうというのではない。それ以外の「小沢評」がマスコミの間で、ほとんど出てこない状況を憂うるのだ。これではまるで覚醒剤を使っていた「のりピー(酒井法子)報道」と同じである。
結局、日本のジャーナリズムは、捜査当局と一体となった疑惑報道か、不倫やクスリといった誰にでもわかりやすいスキャンダル報道でしか人を裁けない。つまり、自分の価値基準をもとにした報道ができない。これは国民にとって非常に不幸なことではあるが、ネットの普及で見識ある専門家が、自分の目線で森羅万象を語るようになり、基準を他に委ねた従来のジャーナリズムに存在価値が無くなりつつある。
一例をあげよう。
政界スキャンダルに必ず登場する立花隆氏は、捜査当局の権威に寄りかかって被疑者を叩くパターンを定着させている。その時のキャッチコピーは、常に「田中角栄金脈の報道で元首相を追い詰めたジャーナリスト」というものだ。30数年前の『文藝春秋』の「田中角栄研究」が、雑誌ジャーナリズムの金字塔であることを疑う人はいない。その後の公判に通い詰めたうえで、まとめた記録にも価値はある。
だが、「角栄研究」以降の立花氏は、犯罪の現場に出ることもなければ、事件当事者に会うこともない「書斎ジャーナリスト」である。「角栄研究」の時もデータは、文藝春秋社に雇われたスタッフ記者が集めていたので、「書斎の人」ではあるのだが、近年、その傾向はますます強くなり、頼りとなるのは新聞テレビの報道だけ。「茶の間の国民」と同じレベルの情報力で、週刊誌や月刊誌でヤメ検と対談を行ない、記事を作成するので、その内容は寒々としてしまうほど薄っぺらい。
『文藝春秋』3月号で立花氏は、「『政治家』小沢一郎は死んだ」と題する記事を執筆した。論点は一つだけ。「自分が戦った田中角栄と同じ次元に小沢一郎はいて、だから過去の遺物として消え去ってもらわねばならない」というものである。そのうえで、東大駒場で立花氏が持っているゼミの学生に「小沢一郎」を語らせ、「既に過去の人」であると、結論づけている。
小沢氏が利権政治家であることを、否定するものではない。だが、今、日本に求められているのは、小沢氏の剛腕であり、その直感に従って国民は民主党を支持した。それに法務・検察が反発、「小沢捜査」に踏み切った過程については、これまでに書き尽くした。
「小沢捜査」は、そうした法務省益、検察庁益の中から始まり、それに運命共同体のマスコミ司法記者会が乗っかり、そこからリークされる大量の反小沢情報が、国民に刷り込まれていった。その問題については別の機会に譲るとして、何の見識も持たず、検察情報という“権威”に寄りかかって、目新しさも斬新さもない情報発信を続ける立花隆氏に、価値はあるのだろうか。
立花氏を取り上げたのは、「日本を代表する」と目されているからで、他の小沢バッシングを繰り返すジャーナリストや評論家もまた、カネを払ってでも購入する情報、目を洗われる斬新な発想、簡単には頭に浮かばない豊かな視点を持っていなかった。
ジャーナリズムの衰退は、ネットの普及で若年層が権威に寄らない情報を自由に、無料で購入できるようになったからである。その反省と、権威を利用して大上段に構える立花氏のような大御所の排除抜きに、日本のジャーナリズムに再生はない。

