金融事件から透ける拝金主義に「日本という国、日本人は変わってしまったのではないか」という印象が否めない。とりわけライブドアの堀江貴文前社長と村上ファンドの村上世彰元代表の証券取引法違反事件は、その容疑の中身よりも、摘発された「堀江的なもの」が考察の対象となった。
いわゆる「堀江的なもの」——。違和感はあるが、その正体を説明するのは難しい。ゆえに摘発当時はその私生活が「堀江的なもの」として報じられたが、結局のところ「核心」はどのマスコミも説明がしきれず、事件収束とともに違和感のみが残された。その正体を縦横無尽な筆致で浮かび上がらせたのが、伊藤博敏氏の『「欲望資本主義」に憑かれた男たち——「モラルなき利益至上主義」に蝕まれる日本』(講談社)である。
長く経済の表と裏をウォッチしてきたジャーナリストの伊藤氏は、すべての起点を「戦後体制の崩壊——1996年末の橋本龍太郎元首相が手がけた金融ビッグバン」ととらえる。小泉改革を経て、日本経済界の合意が「市場の暴力を抑えつつ、その活力を生かす」との欧米流新保守主義・市場中心主義になった中で、「自由度を増した市場では『新』と『旧』、『表』と『裏』、『合法』と『非合法』が入り混じる」。資本を動かす牽引力である「欲望」を制御する術がない現状が「『人でなし』の横行する品格の欠落した国家となりつつある」と位置付ける。
金融ビッグバンは良き意味でも悪い意味でも「国際金融」の思考回路を日本人に教えた。伊藤氏が象徴として挙げるのは、約7兆9000億円もの国税が投じられた旧長銀を再生させた『リップルウッド』が日本政府の無知につけこみ、日本に1円の税金も落とさなかったことだ。「無知に乗じ利益を得る国際金融の常識を、日本国民は高い授業料を払ってリップルウッドから教わった」と指摘し、「では日本もその常識に倣うのか。そのメンタリティを持ちうる人と持ちえない人のせめぎ合いが、しだいに激しくなっている」と違和感の所在を示す。
利益至上の行動原理と、膨張を求める資本の本能。そうした国際金融と資本の本質を押さえたうえで伊藤氏は、表と裏双方の経済プレーヤーを多数登場させ、仕手による伝統的な経済事件の系譜が、国際金融の乾いた価値観が生み出す利益至上主義と絡まり合って裏が表を浸食してゆくメカニズムを解きほどいている。その説得力は、目から鱗を落とすほどの強さがある。
「新」と「旧」、「堀江的なもの」と「非堀江的なもの」の差は何か。伊藤氏が示した解答は秀逸である。堀江氏のアンチテーゼとして、孫正義氏を支えた北尾吉孝・SBIホールディングス代表を「似て非なるもの」として登場させたのだ。
「『孫・北尾』は孫の投資家から実業家への転身と北尾の独立により、『当局のターゲット』ではなくなった。つまり認知された存在となった。『堀江・宮内』のコンビは、そうなる前に目をつけられただけで、『運が悪かった』と二人は思っているに違いない。果たしてそうか…(中略)…これに対して北尾には25年に及ぶ『野村生活』があり、欲望が渦巻く市場だからこそ、『清冽な地下水を汚してはならない』という思いがあった。その意識の違いが、結果的には両者の命運を分けたのだろう」
徹底した取材とデータの積み重ねによる凄味ある分析である。そのうえで伊藤氏は、間接金融から直接金融にシフトする企業経営者の感覚の遅れをファンドや外資が引き締めた効用も認めており、欲望に引きずられ腐りがちな市場と企業経営に対する徹底した情報開示こそがこれを防ぐと強調する。日本の「今」を鋭く抉った必読の書である。

